始まり

 18時の夕日が新宿のホームに降り立った僕に射し込んできた。差し込んだ瞬間は目を閉じてしまうほどまぶしかった。だが、それは一瞬だった。気にかけることもなく、ホームから東口へ下りる階段を探した。

 色黒の額や頬から、イヤホンをしている耳からも。大粒の汗が滴る。クーラーの効いた電車内では嘘のようにかかなかった汗が顔中に戻ってくる。汗をハンカチで拭きながら、頭の中に流れ込んでくるGLAYの『ここではない、どこかへ』を聞き続ける。時折、歌詞が頭の中から飛んでいく。それこそ、ここではない、どこかへ。僕はそれを集中して聞いていないからだと思う。あながち、それは間違っていない。けれど、なんとなくではあるが、聞いていないから歌詞が飛ぶのではないことがわかっていた。

 駅から出ると、夕日は体中に重い熱を浴びせかけてきた。一変して苦い顔になり、足取りが遅くなる。体はその熱に反応して、さっきよりも一段と激しい新陳代謝を行い始めた。背中に白のサテン生地のシャツがまとわりつき始めた。

 もっとも、暑いのは夏のせいだけじゃない。ここ新宿は人が多い分、余計に暑くなる。地面がアスファルトだらけであることも、僕に洗濯機一台分の汗をかかせる原因だろう。

 こんな日は新宿のような都市に来たくない。来たとしても、あまり外を出ているべきではない。クーラーの効いた室内で、大好きな知佳とアイスティーを飲んでいる方が心地よい。今の状況は、快適な状況とはまったく反対だ。あまり口を聞いたことのない人たちと、酒を飲みたくもないのに飲みに行く。しかも、そのためには炎天下の中、全員が揃うのを待たなければいけない。乗り気ではないのだから、足取りが遅いのは仕方がない。

 アルタの前に行くと、ゼミの仲間が4,5人すでに集まっていた。みんな、この暑い中、ずっと日に当たって待っていたようだ。それぞれハンカチやタオルを手に持って、だれた顔で話をしている。僕は皆に来たことをアピールするために、ここのところよく話している斉藤さんの所へ行った。斉藤さんは目を細めて眉に皺を寄せていた。夏にうんざりしたような顔だった。道路端のチェーンに寄りかかりながら、斉藤さんは僕に気づいてくれたらしく、低い声で挨拶をしてくれた。僕は挨拶のように暑いねと答えた。そうだねと言いながら、斉藤さんは手で顔を扇いだ。

 アルタの奥の方で元気に談笑をしていた後輩たちが僕に気づき、口々に挨拶をし出した。後輩たちの挨拶は元気で、軽やかだった。頭を下げると、すぐに元の位置に頭を戻していた。声にも張りがあり、語尾がはっきりしていた。

 

 刹那、僕は自分の老いを感じた。たった一年しか違わないのに、なぜか自分が後輩に比べて十年ぐらい年をとっているような気がした。今の彼らのようなことを、今の僕に要求されてもなかなかできない。

 

 後輩たちの挨拶に頭を下げて返礼をしてまわり、僕は斉藤さんの所へ戻ろうとした。しかし、遠巻きに見た斉藤さんは暑さで、その活気を失っていた。顔をしかめて、時折ハンカチで汗を拭く以外、まったくと言っていいほど体を動かしていない。なんだか僕は近づきたくなくなった。近づけば、そのダレに引き込まれそうな気がしたからだ。今でも十分活気を失っているというのに、それ以上にへたってしまいそうだ。

 そこでまわりを見渡して、話をする相手を捜した。後輩以外で元気なのは黒木だけだった。しかし、黒木は遅刻気味の他のメンツに連絡を取っていて、話しかける状態ではなかった。後輩たちは後輩たちで固まって楽しそうに話しているので、そこに割り込む気にはなれなかった。若さの壁に阻まれている。そんな感じだ。

 仕方なく、誰も近くにいない街路樹に近寄り、僕は黒の手提げ鞄を地面に下ろした。熱を吸収した鞄は暑くなっていて、鞄から取り出した手帳も熱を持っていた。

 シャツの胸ポケットから黒のボールペンを取り、僕はこの状況を書き残そうと思った。いつか、この煩わしい夏を思い出すためには丁度いい記録になる。そこで、僕はまず新宿の空を見渡した。

 今日の新宿の空は、とてつもなく低かった。雲が低空飛行している。しかも、その雲は誰かに平たく伸ばされたように薄く広かった。だから、太陽光は差し込んでくるし、いつも以上に蒸すのだ。不快指数を誘う雲とは、このような雲を言うのかもしれない。

 しかし、こんな新宿の空は滅多に見ない。空が低すぎて、まるで室内にいるようだ。イクスピアリやビーナスフォートの天井に似ている。人工の空のようだ。そう思うと、これ以上空を見続けることはできなくなった。明日には変わるとわかっていても、なんだか空が安っぽく感じられる。たったそれだけで、僕は居たたまれなくなったのだ。空を記録することを止め、僕はかつて自分が手帳に書いた文章を読むことにした。まだその方ががっかりしない。

 知佳のことや知佳と一緒に行った喫茶店のことが書いてある部分を読む。汚い文字ではあるが、楽しそうな文章が書いてある。知佳という文字が踊っているだけでも、十分知佳にメロメロな自分がわかる。けれど、今そばに知佳はいない。読んでいるうちに、だんだんとセンチメンタルになってきた。会いたくなってきたし、せめて声が聞きたくなってきた。そこで、僕はPHSをズボンのポケットから取り出し、メールを打つことにした。今、知佳がどこにいるのか。バイトに行くと言っていたが、何時までだったろうか。ひょっとしたら、終わっているかも知れない。もし、そうならすぐにここから離れて、知佳の所へ真っ直ぐ行こう。知佳と話そう。静かで涼しい喫茶店で、知佳の大好きなアイスティーを飲みながら、知佳には抱えきれない愚痴をいっぱいいっぱい聞こう。

 <イマドコニイル? ヒデ>

 

 メールを打ってから、十五分が経った。しかし、何の返事もない。しかも、こっちはこっちで遅刻組が姿を現す気配さえない。みんな、陰りつつある太陽の中で待ちぼうけだ。斉藤さんは下を向いて、うんざりという様子。口を開くことさえない。対照的に黒木と後輩たちがはつらつとして、童話『アリとキリギリス』のアリのように休むことなく口を動かしている。僕は僕で、十五分の間、知佳からのメールが来ないことを気にしていた。暑さのせいで余計に苛つきもした。いっそ電話をかけてしまおうかとも思ったが、それでは”知佳依存症”にかかっている患者に成り下がるだけだ。今はとにかく大人しくしていよう。そう思い、黙って手帳の書いてある予定表に目を通していた。

 さらに十分が経った。以前メールは来ない。しかし、こっちには動きがあった。ゼミ懇親会の場所へ移動するということになった。遅刻組はとりあえず置いていくという形になったのだ。これで多少暑さからは解放される。

 先頭に立って歩くのは、やはり後輩たちだ。もっとも彼らが店を取ったのだから、当たり前のことかも知れない。さっきと変わらない軽快さで人の流れに乗り、靖国通りへと流れていく。後ろからそんな姿を見ながら、僕は額を手の甲で拭った。ハンカチを出すのも面倒だ。

 いつの間にか、僕の隣には斉藤さんがいた。視線が合った瞬間から、斉藤さんは僕に日傘の重要性について滔々と語り始めた。太陽を指さしたり、地面を思い切り踏んだり。暑さによって高まった感情を叩きつけるように、身振り手振りを交えながら語り続けていた。黙っていることが怖かったのかも知れない。僕と二人で黙ったまま歩き続けるのが怖かったのかも知れない。しかし、僕は僕で上の空だった。右手でスボンの右ポケットにあるPHSを玩びながら、斉藤さんの話を聞き流していた。知佳からのメールが来ないことと、人にぶつからないようにと気を配ることで頭の中が一杯だったからだ。斉藤さんはそんな僕の様子に気づいていないのか、それとも聞いていなくても構わないと思っているのか。日傘と紫外線についての話をヒートアップさせていった。 震えないPHSを触りながら、僕は歩き続ける。

 思えば、僕は後輩たちのようにできない。斉藤さんのようにもなれない。人波に乗りきれないでいる。新宿という泳ぎ慣れた海で、あらんことか浮いてしまっている。人の声や、通りに並ぶ店が放つ音楽。耳に飛び込んでは来るが、少しも消化されない。頭の中を素通りしていく。目に入るモノも同じで、ピンクのショート短パンを履いたセクシー娘がいても、柄の悪いアロハシャツのサングラス男が見えても。視界に入り、そのまま流れて行くだけだ。想いを抱くことも、印象に残ることもない。感情さえ湧かない。心ここにあらず。目につかない、耳につかない。このままでは酒を飲んでも、心ここにあらず。会話で楽しくなることも、ひとしきり騒ぐこともできない。味を感じたり、酔うことさえ危ういだろう。軽快な楽しいことを楽しいとも思えず、重厚な悲しいことだけをより悲しく捉える。そんな自分になっていることに気づいた。

 ハンカチで汗を拭くことが面倒で、僕は再び手の甲で額の汗を拭う。

 

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